
《母親教育が必要な時代》
【子供は親の後ろ姿で育つ】
「子供は親の後ろ姿を見て育つ」とは昔からよく言われてきた表現だ。昔の親たちは、意識せずともその格言を実践に移していた。私の実家は私が子供時代農家を営んでいたが、私は子供心にも、朝から晩まで汗水垂らして働く両親の姿に、何かを感じながら育っていた。私の両親は教育など受けていない。父は尋常高等小学校出で、母は中学校卒業である。それでも、人間として何が大切なのかを教えてくれたのは、学校ではなく両親だった。自分の楽しみは後回しにして、いつも私たち兄弟を育てることに一生懸命になってくれた両親の姿は、私たちの脳裏に強烈に焼き付いている。
妻の両親も同じように妻に厳しいしつけをした。遊び心がついてきた中学生・高校生時代の妻に、義父は言ったそうだ。「何をしてもいいが、全ての責任は自分で取れ」と。そんな風にして多くの冒険をさせてもらった妻は、自立心が非常に強い女性に成長した。そこは、祖母の庇護の元に育った脆弱な私とはだいぶ違う。それでも、二人とも世間の人々に迷惑をかけないように、また他人の心情をよく思いやって、誠実に生きるという人生観は一緒である。そして、そういう人生観は二人とも両親から教わった大切な財産だ。
ところが、最近では後ろ姿で子供を育てることができる親たちが少なくなった。特に、母親があまりにも子供に無関心になったように感じる。あるいは、そうでない場合には、子供に接近しすぎて子供の足腰を弱めている場合が多い。今の子供たちが、次の世代の中心となって日本を支えていくことを考えると、これは大変憂うべき事態だろう。
【回転寿司屋で駆け回る子供たち】
ある日のこと、私たち夫婦が近くの回転寿司屋で食事をしていると、私たちの食卓の近くで子供たちが遊んでいる。あっちへ行ったかと思うとまたこっちという具合に、店内を走り回っているのだ。店員は皆アルバイトの若い子ばかりなので、上手に注意することができないようだった。それよりも何よりも、子供たちは両親と祖父母と一緒に来店していたのだ。彼らは順番待ちをしていたのだが、駆け回っている子供たちを見ても、何の注意もしないからびっくりしてしまった。食事をする場所で駆け回ったらほこりが立って迷惑になるという常識ぐらい、子供たちに教えられないのだろうか。だいたいにして、こういう場合に余計なおせっかいで他人が注意したりすると、親が逆ギレしたりする。情けない世の中になったものだ。同じような光景は、病院の待合室でも目にしたことがある。子供たちが待合室で動き回っているのに、母親は携帯電話でメールをするのに夢中で、何の注意もできない。待合室には具合の悪い人もいるのだから、絶対に子供を走り回らせてはいけないことくらい分からないのだろうか。自分の子供の行動よりも携帯電話に興味を示す母親の姿に、世の末を感じたのは私だけではなかったはずだ。
【何かにつけ他人を批判する母親】
私は中学校の教師である。24歳の時に教員になってから、もう25年以上も教員生活を続けてきた。その25年の間にも、母親たちの姿は大きく変わっている。以前の母親なら、私たち教員が何かミスをしでかしても、寛大にカバーしてくれたものだが、今の母親たちはそうはいかない。ちょっとでもミスをしようものなら、すぐに学校に苦情を言ってくる。ひどい場合には、学校長を越えて直接教育委員会まで話が行くケースもある。世間は言うかも知れない。「学校の教師だってだらしなくなったじゃないか」と。でも、それは違うのだ。昔の先生たちの方が仕事はいい加減だった。学校でお酒を飲む人もいたし、ここでは話せないような乱れた話もたくさん聞いた。それに比べて今の教師は極めて真面目だ。確かに、ミスを突き上げられるのが馬鹿馬鹿しくて、熱血教師は減ったかも知れない。
もし、子供が学校の教師の悪口を言ったとしたら、今の親は子供に何と言うのだろう。「先生も大変なのよ」とたとえ嘘でも教師をかばうのか、それとも子供に同調して一緒に教師の悪口を言うか。賢い親の言動で子供たちはやたらと他人を批判してはいけないことを学ぶに違いない。親が他人の批判ばかりしていたら、子供も同じように批判ばかりの人間に育ってしまう。だからこそ、子供と関わる時間の多い母親は特に、やたらと他人の批判を口にしてはいけない。子供の前ではそのように振る舞っておいて、内緒で来校し先生と懇談するのが賢い母親のとるべき道だと思う。
よく学校の悪口を子供の前で平気で言いふらす塾の先生がいる。学校の教師の中にも、平気で塾の悪口を言う人がいる。これでは子供のまともな教育はできるわけがない。現代は、学校だけでは教育はなりたたないから、塾と学校が共存していかなければならない。私が中学時代に通っていた塾の塾長先生は、私たちが学校の先生の悪口を言うと、大変な剣幕で私たちを叱ったものだ。その当時は、体罰など批判されない時代だったから、塾長先生は竹の棒で私たちの二の腕をひっぱたいた。でも、他人の悪口を言わない塾長先生のことが、私たちは大好きだった。私も、一時教員を辞めていたときに大手進学塾の講師をしたことがあったが、授業中に学校の悪口を言っていた別の教室の室長を叱ったことがある。私の方が年配でも、私はただの講師で向こうは室長である。相当にプライドが傷ついたと思うが、間違っていることは間違っている。立派な授業で子供たちを引きつけることができるのだから、学校の悪口など言う必要はないのだ。彼らが学校の悪口を言うとすれば、それは大きな組織に対する劣等感の表れだと思う。逆に、一生懸命頑張ってくれている塾の悪口を言う学校の教師がいるとすれば、それは身の程知らずだろう。
いずれにしても、立場の違う人間を簡単に批判して自分を棚に上げる姿勢は、子供たちに確実に受け継がれていく。そして、子供たちもやがては同じように他人を批判する親になっていくだろう。
【子供の安全を第一に】
今の親が子供を連れて道を歩くとき、子供は親のどちら側にいるだろうか。昔だったら、子供は車道と反対側を歩かせるのが常識だったが、今の親はなかなかそうはいかない。それどころか、自分だけが平気で先を歩いて、子供は後からふらふらして付いていくという場合もある。だいたい携帯と睨めっこしながら母親が歩いていて、どうやって子供の安全を確保しようと言うのだろう。自分から離れたところを子供が歩いていて、誰かに連れ去られる危険は感じないのだろうか。アメリカではスーパーマーケットに行くにも、誘拐を恐れて子供に首輪をつける人もいると聞く。そこまでしろとは言わないが、せめて自分のそばを歩かせて、会話を楽しむべきだろう。
少し前までは、子供が一人で下校することは厳禁とされていた。ところが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という格言のある日本だけあって、今では子供がたった一人で歩いているケースをよく見かける。親同士が子供の安全を意識していれば、帰り道は必ず一緒になるように配慮するだろうし、とにかく子供の安全を無視した親が多いのではないか。それでいて、何か事件が起きたときには大騒ぎする。危機管理ができていない自分に全ての責任があるのに、最後は他人のせいにするのでは理屈に合わない。
でも、考えてみれば、幼児や児童の虐待事件が後を絶たない時代である。子供の安全を確保するどころが、自ら子供に危害を加える親も増えている。親に大切にされずに育った子供は、他人を大切にできない大人になる。全ての親がドロシー・ノルテという人の書いた子育てに関する本を読むべきだと思う。
【しっかり教育のできる世代】
私が論じているのはあくまでも若い世代の母親たちだ。現在でもまだ昔風の教育ができる母親たちは大勢いる。私と同じ世代の母親たちは、子供たちをしっかりと育てている。「肝っ玉母さん」を地でいく人たちも少なくない。ところが、ある時期から前の世代になると状況は一変する。どこで線を引けばいいのかはもちろん分からない。なぜなら、若い世代の母親の中にも、子供たちを責任を持って育てている人はいるからだ。自分の楽しみは後回しにして、子供のために一生懸命働く母親たちは、世代を超えて存在する。
しかしながら、若い世代の多くの母親は子育ての仕方を知らない。こんなことがあった。ある若い母親が自分の車を路上駐車していた。しかしながら、あまりに長い時間駐車していたために、自分の車の前後を別の車に挟まれてしまったのだ。一緒にいた子供はそれがおかしくて大騒ぎ。そこでその母親が発した言葉は、「こりゃやっべーじゃん」だった。そんな言葉をしょっちゅう母親の口から聞いていたとしたら、その子はどんな大人になるのだろう。大人同士の間で汚い言葉を交わすことはあるのかも知れないが、少なくとも自分の子供の前でそんな醜態をさらしてはいけない。そういう若い母親が多くはないだろうか。子供が言うことを聞かないからといって、「てめえふざけんじゃねえぞ!」なんて毒舌を吐く母親であってはいけないのに、そういう母親が確かにいるのだ。
【どんな子供を育てたいのか】
いったい、今の母親たちはどんな子供を育てたいと思っているのだろうか。理想的な子供像をいくつか挙げてみたい。
@他人の痛みを理解することができる子供。
A時と場合に応じて適切な言葉をしゃべることができる子供。
B他人とのコミュニケーションを上手にとれて友達が多い子供。
C弱い立場の人間を大切にすることができる子供。決して弱い者をいじめない子供。
D困難な状況にあっても、勇気を持って乗り越えることができる子供。
他にも子供に関する美徳はいろいろあるかも知れないが、少なくともここに挙げた項目のいくつかを身に付けた子供を育てたければ、その見本は親が身を持って示さなければならない。前述したように、子供たちは人間としてどうあるべきかという姿は、学校から学ぶのではなく、親から学ぶからだ。もちろん、大きくなるにつれて社会からも多くを学ぶようになる。学校でも「道徳」の授業があるが、それは国語の授業の延長線上にあるようなもので、決して子供たちの価値観を大きく変えるような力は持っていない場合が多い。
もちろん、いい本や映画との出会いが人間性を育てるきっかけになることもある。それでも、基本的な人間性はやはり親の背中が教えてくれるものだ。親はそのことを決して忘れてはならないと思う。
《携帯電話の非常識》
【ゆっくり横断する女子高生】
車は、横断歩道を渡ろうとしている歩行者がいるのを確認したら、停止しなければいけない規則になっている。そして、そういう場合の歩行者の行動には3種類あると思う。ある歩行者は、止まってくれたドライバーに軽く会釈をして少し早足で横断する。このタイプの歩行者が最も常識的だろう。次の歩行者は知らんぷりをしてただ横断する。この手の歩行者が一番の多いかも知れない。そして最後のタイプが携帯電話と睨めっこしながらゆっくりと横断する歩行者だ。これは女子高生に多い。自分のためにわざわざ止まってくれているのに、ドライバーに感謝することもできずに、自分の世界に浸っている。自分が携帯電話と睨めっこしていることで、交通をストップさせてしまっていることにも気がつかない。なぜこんないかれぽんちな行動ができるのか、ちっとも理解できない。
携帯電話自体は非常に便利な道具だが、現代の人間はその道具に使われてしまっている。バスや電車に乗り込んで来るなり、いきなり携帯電話で何かを始める人たちの何と多いことか。年配の人間にもそういう人たちがいるから少し驚かされる。電車の座席に座っていて周囲を見回したとき、驚くほど多くの乗客が携帯電話と睨めっこしている光景を目にすると、背筋が寒くなる。
横断歩道を携帯片手にゆっくりと渡る女子高生は、そんな時代が生んだ産物だ。
【公共機関の中の携帯電話】
一般的にはバスや電話の中での携帯電話の使用は禁止されている。スイッチを切るか、マナーモードにしておかなければならない。メールの交換やゲームなどが、医療機器を体内に埋め込んでいる人々に悪影響を及ぼすのかどうかは知らないが、できるだけ使用を控えておいた方がいいだろう。ところが、中には平気で携帯を使って話をしている人間がいる。人間は電話で会話をすると自分が思っている以上に大声になる。だから、周囲の乗客は迷惑至極なのだが、そんなことを平気でする人間が周囲の乗客を気遣うわけがない。社会のルールなどあってなきがごとしだ。心臓のペースメーカーを埋め込んだ人が近くにいたらどうするのだろう。
そんなに緊急な電話なら、車両と車両の間か、車両の端に行って小声でやればいい。それが、自分の座席に座って堂々とやっているのだから始末に負えない。バスや電車の中に乗り込んだら、自動的にスイッチが切れてしまうような携帯電話が発明されない限り、いくら乗客の善意に呼びかけても、無駄だろう。この世の中は非常識が堂々と闊歩しているのだから。
【自転車や車を運転しながら】
いつからそんな離れ技が流行りだしたのか知らないが、自転車に乗りながら携帯電話と睨めっこしている人たちがいる。その多くは高校生を中心とする若者たち。車を運転しながら携帯電話をいじるのはもってのほかだし、多くの人は厳しい法律が定められてそんな真似はしなくなったが、同じように法律で禁止されている自転車を運転しながらの携帯電話は、一向に後を絶たない。携帯電話をじっと見つめて、ボタンを操作しながら自転車に乗っていて、果たして前方は確認できているのだろうか。ある高校生に質問してみたら、きちんと前も見えていると言う。自転車の不注意で事故が起きても、責任を問われるのは車の運転手だ。そんなはた迷惑なことは絶対にしてもらいたくない。
以前、私の車の前を、携帯電話を操作しながらふらふらっと横切ろうとした自転車があった。私は思わずその女性を怒鳴り飛ばした。すると、その女性は、「何でそんなに怒鳴るのよ」と言わんがばかりに驚いた顔をして、そのまま走り去ってしまった。あれで、私がその女性をはねていたら、恐らく私は仕事を失っていたに違いない。教育公務員にとって、人身事故は命取りだからだ。携帯電話をいじりながら、ろくろく周囲に注意も払わずに自転車を運転していた愚か者のために、人生を台無しにすることもあるかも知れないと思うと本当にやるせなくなる。
法律では、自転車や車を運転しながらの携帯電話は禁じられている。警察は車の方は厳しく取り締まりをするが、自転車に関しては本気で取り組んでいるとは思えない。そんな甘い対応をしているから、自転車の携帯電話が一向になくならないのだろう。法律できちんと決められているのなら、しっかりと罰則を科すべきだろう。大きな事故が起きないうちに。
【職場に鳴り響く呼び出し音】
これはどこの職場でも同じかも知れないが、携帯電話をサイレントモード(呼び出し音が鳴らない状態)にしないで、自分の机の上に置きっぱなしの人間がいる。周りは静かに仕事をしているにもかかわらず、あるとき突然うるさい着信音が鳴り響く。最近は着メロとか着うたなるものが流行っているので、その騒々しさたるや大変なもの。あっちでも鳴り、こっちでも鳴り、うるさくて仕方がない。私の場合は、昼間はほとんど授業をしているので携帯電話は常にサイレントモードだ。家に帰る車の中と、家に帰ってからだけ着信音が鳴るようにしている。だから、着メロや着うたは必要ない。私は音楽が大好きだが、そんなものをダウンロードしても意味がないからだ。
職場でサイレントモードを嫌う人たちは、自分がこんなに素晴らしい着メロや着うたを持っているのだということを、誇示したいのだろうか。でも、職場は職場。常識的には、携帯電話はサイレントモードにしておくのが普通だろう。だいたい、「携帯電話」というくらいだから、いつも持ち歩いていなければ意味がない。机の上に放置しておくのははた迷惑というものだ。もちろん、刑事でもない限り、携帯電話を持ち歩いているときは、サイレントモードにしておかなければならない。もし会議中に着信音が鳴ったら、顰蹙ものだろう。実際、そういう場面を私は何度も見たことがある。そういう人に限って、部屋の外に出る前に話し始め、部屋の外でも平気で大声で話すものだ。非常識な人は、何をやらせても非常識ということになる。
《喫煙の非常識》
【なぜこの時代に歩き煙草?】
レストランや公共の場所での喫煙が禁止されるだけでなく、街中での喫煙さえ規制される今の時代にあって、まだ歩き煙草を平気でやっている人たちがいる。煙草を持つ手を下に下げれば、それはちょうど子供の目線と同じ高さになる。歩いていて、子供とすれ違ったら危険だとは思わないのか。それに、歩き煙草をするような人間が、簡易灰皿を持ち歩いているとは思えない。吸い殻は道にポイ捨てするに決まっている。そんな吸い殻を誰が掃除するというのだろう。
私も煙草を吸うが、きちんとルールを守って吸っている。今まで、自由にすえた煙草が、あれこれと規制を受けるようになったことに関しては、政府の身勝手を感じざるを得ないが、それでも時代の流れを変えることはできない。自分の健康を害するかも知れないことを承知の上で煙草を吸う人間は、きちんと社会のルールを守らなければならない。歩き煙草は、周囲を歩いている煙草を吸わない歩行者たちの迷惑にもなる。地球温暖化の原因にはならないかも知れないが、他人の迷惑は考えたい。
【自転車やバイクに乗りながらなぜ喫煙?】
携帯電話を使いながらの車の運転が禁じられている今の世の中では、車の運転をしながらの喫煙ですら遠慮した方がいい。窓を開けて灰を外に捨てるのもいい迷惑だし、車に備え付けの灰皿を使おうとしたときに、事故が起きないとも限らない。そんな時代にあって、不思議な光景をよく見かける。自転車やバイクに乗りながら煙草を吸っている人間が少なからずいることだ。なぜ止まって吸うことができないのだろう。そういうライダーたちは、煙草の吸い殻は確実にポイ捨てするはずだ。火を消すことはできないだろうから、火がついたままの煙草を捨てることになる。これほど危険なことはない。捨てた煙草が歩行者に当たっても、自転車やバイクはそのまま走り去ってしまうことだろう。無責任とはこういう事を言うのだ。
自転車やバイクの危ない運転はそれでなくても多い。信号を守らない自転車。車の間を縫って疾走するバイク。冗談じゃない。そんな危ない運転をする連中が、更に運転中に煙草を吸うとなると危険きわまりない。車と違って、自転車やバイクは気軽に停車することができる。ならば、煙草を吸いたくなったら、どこかに停車してゆっくりと吸えばいいではないか。そうすれば、誰にも迷惑をかけることはないし、自分たちも安全な運転をすることができる。簡単なことではないか。
《公共交通機関の中で》
【お年寄りになかなか席が譲れない】
今の人たちの多くは、電車やバスに乗るなり、いきなり携帯電話やゲームを始めるので、周囲の乗客の様子はなかなか分からないかも知れない。私は職場の関係でよく横浜市営地下鉄を利用するが、お年寄りに快く席を譲る場面はあまり見たことがない。前述したように、携帯電話やゲームに夢中になっているか、居眠りをしている乗客が多いからだろう。でも、目が覚めていても何もしない人たちもいる。ところが、状況は関東と関西ではだいぶ違うようだ。先日京都に旅したとき、バスや地下鉄の中で若い人たちが気軽にお年寄りに席を譲っている場面を見た。関東の冷たい風景になれていた私にとって、これは驚きの光景だった。明日は我が身で、誰でも年を取る。席を譲る行為はもっと素直に行われなければならないと思う。ちなみに、横浜の市営地下鉄では全席が優先席になっている。
席の譲り合いがスムーズに行われないばかりか、自分だけが座るスペースを確保して、動こうとしない人たちもいる。またを大きく開けて座っている男性。荷物を自分の横に置いている女性。もう少し他人に対する思いやりがあれば、余分にもう一人座れるかも知れないのに、それができない。全く情けない時代になったものだ。
【携帯電話は責められないかも知れないが】
前述したように、公共交通機関の中での携帯電話のマナーの悪さはひどいものだ。でも、これだけ電子機器の研究が進んだ時代にあって、携帯電話に夢中になる人たちを、一方的に批判するわけにはいかないかも知れない。ただ、電車やバスに乗り込んで来るなり、いきなり携帯電話やゲーム機を取り出して、それに向き合って顔を上げないという光景は、あまり健全ではない。これはマナーに違反してはいないかも知れないが、どこかおかしい異常な光景だと思う。
私も最近は電車やバスの中であまり本を読まなくなったが、社会人なら本や雑誌や新聞を読んで見識を深める方が、よほど健全な行為に見える。モバゲーという携帯電話のゲームサイトがあるが、いい大人がそんなものに夢中になっていていいのかどうか。
聞くところによると、乗り物の中で携帯電話を使ったゲームを楽しんでいるのは、若い世代だけではないようだ。年配の人たちの中にもゲームに夢中になっている人がいる。そういう時代になったのだ。
【大きな荷物は迷惑にならないように】
電車の中などでは、入り口付近に立たずに奥につめることとか、大きなリュックを背中に背負ったままで立たないこととか、いろいろな暗黙のルールがある。ところが、エスカレーターで左に寄って立つ(関西では右に寄る)ことはきちんと守れるくせに、車内のルールとなるとなかなか守れない。他人のことを少しでも思いやることができれば、荷物はできるだけ邪魔にならないようにすることができるはずだ。網棚の上に乗せても心配ないものなら、そこに乗せるのが一番いい。貴重品などの入ったバッグは膝の上に置けばいい。
一番迷惑なのは、荷物を座席に置く人だ。それをどかせば人一人が座れるというのに、何を考えているのか。まあ、さすがに混雑した車内ではそんな非常識を見かけることはなくなったが。
先ほど車内で携帯電話と向き合ったままの人が多くなったと言ったが、車内で電話をする馬鹿者もいる。携帯電話での会話は思った以上にボリュームが大きく、周囲の乗客にとっては迷惑この上ない。荷物よりも、そちらの方がよほど迷惑だろう。